カントなどを考える

近頃、カントの本が時々目に付く、大学に行く途中の図書館に哲学書のコーナーがあって、たまたま地下のその図書館の新聞コーナーの横が哲学書の場所なのだが。カントというと有名なのが生涯小さな町から出ないで、自分の周辺で過ごし、毎朝同じ時間に散歩をし町の人たちはカントが通ったときに時間が分かるという正確さだったらしい。このどこにも行かなかった生涯というのに引かれる。日本人だって一生涯小さな町だけで過ごした人はたくさんいたような気がする。昭和30年代まで海外の旅行だって簡単にはいけなっかった時代だしね。で、どこにも行けなかった人たちがものすごく不幸だったかというと、結構な充実だったような気がするのだ。時代が違うといえばそれまでだけれど、カントは家の周りで一生を過ごし哲学していたのだ。そのカントは言葉を疑う。もし人間が思い、考えたことを全て書きとめ、言葉にしたら、いかに悪魔だということがわかるだろうなどということを言っている。
言葉が信じられない。まあ、国会などの答弁を見ていればわかるが,繕った言葉の連続で本音などないに等しい。そうやって世界は出来ていて、本音と違う言葉の中で俺達は生きているわけだよ。そこで思う。演劇も言葉だけれど、近年は身体のことをすごく言われる。今やっている大学も身体科というところだしね。身体の感覚を磨く、身体の感覚を研ぎ澄ます、というか言葉を疑うという姿勢も必要なのかもしれないね。言葉で説明できないものは無意味ではなく、むしろそこのところに真実があるというかね。感受性といったらいいのかな、そこをきちんと見据える教育のようなことが欠如しているというきがする。まあ、いろいろな人が言ってることなんだろうけれど。言葉で説明できる時代が変わったのかもしれない。正論だけで世の中は動くけれど、正論を吐く野郎がとてつもなく嫌な奴で、こいつの言うことだけは聞きたくない、ということも多々あるんだけれど、言葉に出来にくいというか、あいつの言ってることは概ね正しいけれど、あいつの顔を見ているとぶん殴りたくなる、なんてことを言ったら、あの人はどうかしている、なんていわれそうだしね。そこで言葉を選んで、なんとなく虫が好かないなんてことを言わないで、言葉を見つけるというか、なるほどなあ、の言葉を添えるのですね、で、カントさん。人はなぜ生きるのであるかなんてことを生涯をかけて考えた人だと思うのだが、カントの哲学書は難解でよくわからない。よくわからないのをしみじみと読むなんていうのもいいのだけれど、するとだんだん、人はどうして生きているのかなんてことがぼんやりわかったりするのかも知れませんが。
なんてことをぼんやり考える今日この頃。8月には新潟県の板倉区でワークショップ。26日に演劇公演を行う。ぜひ遊びに来てください。そして哲学を。なんてことでもありませんが、資本主義の根幹が揺れ始めているこの時代。最新型の演劇を新潟から発信しようと考えているのです。

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