最近、色川武大さんのエッセイを読んだ。阿佐田哲也の名前で麻雀放浪記なども書いている作家で、私が好きな作家でもある。数年前に亡くなっているが、今も 時々、本を引っ張り出して読んだりする。いずれ我が身もというエッセイの中で、自分の頭の形がえびつであった事にひどくコンプレックスを抱き、自分の人生 の根本が決まってしまったような気がするというくだりがあった。私も子供の頃に手にひどいコンプレックスをもった経験がある。私の手はまるで老人のよう だ。今はそろそろ老人なので気にならなくなったが、子供の頃も手だけが老人だったのである。子供というのは残酷でちょっとした違いに敏感だ。大きな違いに は同情したりするけれど、ちょっとした違いには厳しい、頭の形がちょっと人と違う、手が少し変だ・・簡単に言えば苛めにあうわけです。私の場合気が強かっ たので、手のことでからかわれた瞬間に、相手の鼻が折れるという事になったわけだが、それでも強い暴力で対抗しなければならないほどの傷つき方だったよう な気がする。本当は真直ぐ美しくありたいと願っているのに、最初に手のことでつまずいた、するとものの考え方が決まる。私は楽器ができない,字が下手だ。 理由は手に注目が集まる事を避けたからだ。習字の時間は苦痛だった。手を見られるからだ。字よりも手に他人の気持ちが集まるのはいい感じではないのだ。色 川さんも頭の事ではそんな事だったのだろうと思う。頭がこんなだから、普通の生活者になれないと思った,という言葉は私には他人事ではない。下らないと思 うかもしれないが,私は子供の頃、手をすばやく動かす練習をした。そうすれば、手の老人化を少しでも、ごまかすことが出来るかも知れないと思ったのだ。大 手を振って下らない道徳観がまかり通っている。と、色川さんは言う。頭の形のいい人や手が美しい人たちの常識。何でも普通に美しく・・つまらねえ時代に なったと私は時々思う。
2004 年 4 月 6 日 (火)
2013年3月6日
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