発達障害

8月の一人芝居。10月の「べっかんこ鬼・拡大版」長野県の佐久、新潟上越での公演が終わった。台風の中での稽古本番。ともかく乗り切った。

佐久で美術の大田創さんが、徹底的に凝った舞台装置を作ってくれた。車の中で大田さんが「鈴木くんは発達障害だから」と言う。妻が「ピンポーン」と言った。

「僕もそうだからわかるんだよ」と大田さん。発達障害の特徴。モノの整理が下手というかできない。人の気持ちが慮れない。自分のことは夢中になってやる。

その他色々。私の周りに同類と思われる人間が何人かいる、一緒に仕事をしていると漫才のようになる。先日は財布をなくし大騒ぎをしていた私に、もうひとりの私的男が、「だめだなあ、そういうの気をつけなきゃ、入れるところを決めてとかさあ」などと言ってるうちに「あれ?俺の筆箱がない」と騒ぎ出し、みんなで探し、なんと家の子供の引き出しに入っていたなんてことがあった。楽屋で本番前、他の出演者が衣装がないと騒いでいる「だめだなあ、衣装ぐらい管理しないと」私が言った。しばらく探しているうちに、その男が「あれ?その衣装私のですよね・・・」私がその男の衣装を着ていたということがあった。もう一人の私と似た男もまあ、そういうことの連続なのである。笑い話にはなるが一緒に暮らしている人間はたまったものではないのである。発達障害のスキルアップ講座というのがあって、今度一緒に行ってみようかなどと言っている。

今年もあと少し、12月1日に長野、13日、14日に東京三宿の徳の蔵にて「kの誘惑・蝶の夢」の上演となる。久しぶりの私の新作。演出は大谷亮介。出演は私と川口龍

稽古で猛烈に忙しい。私の仕事を黙って手伝ってくれるスタッフの方達に感謝である。昔、私の若い頃、発達障害などという言葉はなかったような気がする。もっと若いときにわかればもう少しマシななどと近頃思うのだ。借金も増えた・・・身を粉にして働こうと、決心の11月なのです。

長野県佐久で考える

ここのところ長野県佐久で「海の見える理髪店」上田で劇作家協会主催で「べっかんこ鬼」を演じた。様々な人に支えられて演じることができているわけだ。

佐久ではホテルの風呂や町中でも「鈴木さん、芝居見ましたよ」などと声をかけられる。ありがたく、責任を感じる。

同時に始めた塾や演劇に手応がある。新作も戯曲の段階だが評判がいい。腹に力を入れて、今年を乗り切りたいと考えている。12月中にも東京、新潟での新作上演を視野に入れているが、小劇場というよりインパクトのある空間での上演を考えている。

長い間、私の演劇活動は新たな観客層の掘り起こしを目指してきた。そこへの模索の連続で、必ずしも成功したとは言えない。組織や演劇人というインテリ層に頼らない演劇。

などとやると無理がある。観客を集めようとすればなりふりかまっていられないわけだ。そのなりふりが私にはどうにも中途半端だったという反省がある。

まあ、そんな事を考えながら、でも本質的な理想の旗は降ろさないで、地道に続けていこうとあらためて決心もするのだ。

熱い夏も過ぎていく。ここのところ日々の暮らしのことを考えている。洗濯したり掃除したり、食事を作ったり。そんなことの連続が実は上質な演劇を創る糧になるのだと、この年になってようやく気がついたりする。来週から土、日は佐久でワークショップ。高校演劇の審査などがある。演劇と正面から向き合う幸福な時間が続く。

長野県佐久で考えた

長野県佐久で「べっかんこ鬼」を演じた。 旧大沢小学校 中込の古民家 お客さんもたくさん来て反応もよく、手応えがあった。

7月27日~演劇塾もはじまる。三年計画でどこまで切り込んでいけるのか。平田オリザ氏が豊岡で演劇活動を始める。移住し演劇の専門大学も作る計画だという。規模はぜんぜん違うが、東京ではない場所で演劇を作りそこから世界に向けて発信しようというような野心もある。11月には私の新作も上演する。

私は演劇の世界では知られている方だが、一般的には無名だ。地方都市で活動する場合、無名であることはやはり武器にはならない。演劇の世界でなにか大きな賞をとっているとか、テレビなどに頻繁に出て顔が知られている、というほうがそれはもう本当にやりやすい。今回関わってくれている舞台美術の太田創さんは紀伊国屋演劇賞をとっている。私は無冠だ。

でやっぱり。公共の予算を使う場合、理由が欲しい。なぜこの人なのか。そこのところが弱い。と、まあ、自分でも思うのですね。佐久での活動はなんとか予算がついたらしい。嬉しいことだが、今後についての不安はもちろんある。それは私の無名に起因するのだけれど。平田氏が乗り越えられるだろうことは、私には難しい。

栄光ある孤立無援などと気取ってみても、屁のつっぱりにもならないのですね。移住して腰を据えてなどとも思うけれど、時間がかかりそうだ。演劇活動を地道に続けて、そこから何かが見えてくるというようなことなのかもしれない。平田オリザ氏は豊岡で世界演劇祭をとぶち上げた、すぐに実現するだろう。

で、私の佐久での演劇は、まず理解してもらって、から始まる。演劇塾、そこから始まる。プレイはプレイだ。ピーター・ブルックは劇は遊びだと言った。その延長線に立ち位置を置いて独自の世界を切り開く心づもりで向かっていこうと、長野県佐久市で考えた。

4月

4月は色々なことが始まる。次男は中学生になった。私の教えている学校は厚木から中野坂上に移った。周辺の景色が変わっていく。

長野県佐久市の演劇プロジェクトもスタートした。熟慮して、豊かな作品を創っていこうと思っている。後はそれほどないのだからね。

ここのところ芝居を見る時間が増えた。改めて贅沢な時間だと思う。眼の前で、人間が叫んだり、泣いたり、笑ったり、考えたりしているのを見ることができるのだ。

もっとたくさんの人に演劇の時間を体験してもらいたいと思うが、なにしろ、日本には演劇教育がないので、観客が育たない。少し難解だともう諦めてしまう・

演劇は絵画とか彫刻と同じだと思っているが、そこのところが演劇教育を受けていない人には理解できない。

演劇はエンターティメントで人に喜んでもらえるものだと思っている。違うんだよね本当は。もっと深淵なんていうと抽象的だが、まあ演劇は人生そのものなのだと思う。

観る方も、やる方も取り返しのつかない時間を共有するわけで。だから演劇は面白くて癖になって、もちろん毒にもなるのだ。

4月。本当に色々と考える。引っ越しもして落ち着いた。今までの家より数段いい。こんなことならもっと早く引っ越しとけばよかったとも思う。タイミングも良かったんだろうね。

4月も早半ばも過ぎた。隣の花畑に蝶たちがやってくる。花が咲き誇っている。気分が幸せになる。たったそれだけのことなのだけれどね。

ここのところ風邪気味。早く直して。5月に向かう。

稽古

稽古を始めた。今は三人だが少しづつ増えてゆく予定だ。ゆっくりと歩を進めたいと考えてもいる。べっかんこ鬼の拡大バージョンを含めて今年やっていく芝居の方向を見定めてゆこうと思っている。学校も4月から始まる。新しいことを始めたい。引っ越しも終わって少しだがゆっくり出来るようになった。午前中の新しい仕事も始めた。新規まき直しである。戯曲も順調に進んでいる。小説の手直しも3月から始める。二本の長編。一本の短篇をどこかに発表しようと考えて動いている。ファイティング40の続編も構想中で、この作品も発表の場所を模索しているところだ。ここのところ考える。この作品は世に問えるものなのか、芝居も演技も、子どもたちに残せるものをきちんと作っているのだろうか、なんてことをね。今度の家は事務所のようなところなので、本読みくらいは出来る。ここで稽古して体を作って、身構えて進む。隣は空き地で花畑。春には蝶がやってくるだろう。書いている戯曲が蝶の話。縁起が良い。来週から芝居の準備が本格的にはじまる。いい芝居を提供したいと思っていますので、どうぞお楽しみに。今、芝居の世界がつまらないからね。過激で実験的で楽しめる、新たなエンターティメントを目指します。

引っ越し

引っ越しが決まった。生涯引っ越しは何度目だろうか・・伊豆の下田、若林、太子堂、野沢、中野、新宿、代々木、船橋、奥沢、雪谷大塚、二子玉川、等々力、中目黒、三軒茶屋だけでも三度家を変えている。今度もどうやら三茶周辺になりそうだ。こんなに引っ越している人間も少ないのではないだろうか。この年になってまだ引っ越しかと少々うんざりする。エネルギーが減ったのかもしれないね。一箇所に留まれない、そういう運命なのかもしれない。どこで野たれ死ぬのかと最近ふと思う。

地方都市に行くとそこに永住の場所があるとはとても思えない。東京が長い。けれどまあ、住めば都という言葉もあるわけですね。東京新聞の連載が終わって、時々反響がある。書きたいことは書いたというか、一区切りをつけたような気持ちだ。今年が始まって、新たに戯曲の構想を練り始めた。長野県でやる芝居のためのものだ。タイトルは「説教」(仮題)最初に書いた戯曲真夜中のキッチンの続編の気持ちで書いている。真夜中のキッチンは若い夫婦と生まれてきた赤ん坊の話と別れた妻のもとに戻ってきた夫の話の二話。そして今回は中年になった息子と老年の父親の話となる。父は蝶の研究をして新種を発見した男。息子は製薬会社に勤めている。息子の家のキッチンで、二人は真剣に向き合う。伝えたいバトン。受け取らなければならないバトン。そんな話だ。スリラーでもありファンタジーでもありような話にしようと考えている。

引っ越し。物を捨てようと考えて、これがなかなか捨てられない。なにもかも流されて、身一つになったって生きていけと思ってはいるけれど捨てられないで喘いでいる。

老年の引っ越しはちょいと苦しいものなのです。まあ、少し決まりかけているのでほっとはしているのですが。本年もよろしくお願いいたします。1月も早半ばですね。

変わっていく

色々なことが変わっていく。このままでいいと思ったことが変わっていくのが時の流れというもの。などということを近頃考える。経済が大変だ。いい時もあれば、悪い時もある。それが、独立で生きるということなのかもしれませんね。

で、経済が大変だと人は離れていきます。資本主義社会の道理なのですね。で、今劇団も生活もぎりぎり喘いでいます。で、惨いことになるかというと、そんなに冷たくもない。けれど冷たい。なんてことを肌身に感じるのですね。励まされたり、突き落とされたり、色々です。

さて、来年が間近。劇団を今一度見直して、再出発の準備長野県佐久市での活動を中心に、地方都市での活動を視野に入れています。東京新聞で「私の東京物語」が12月14日より始まります。いま一度東京での悪戦苦闘を書きました。なんだか苦労の連続。やや悲しくなります。ファイティング66のタイトルを付けました。妻はボクシングのレフリーの資格を取りました。で、だから何がどうということもないのですが。新たな物語を語れるような気がしています。

もうすぐ師走。慌ただしい季節になります。11月準備の時間です。

日々の暮らし

日々の暮らしが楽しい。と書けばそろそろ死期も近いのでそういう心境に立ち至ったか、などと思われそうだ。食事の支度が楽しみになる。きょうの夕飯のことを昼には考える。
3時過ぎには買い物。4時半には支度が始まる。ずいぶん暇だと思われそうだが、これでも今は結構忙しくしている。いろいろな話が飛び込んでくる。書いた小説の新たな映画化、新聞での連載。
大学の授業もそろそろ始まる。べっかんこおにの公演。高校演劇、アマチュア演劇の審査。新たな一人芝居の公演。ね、結構忙しい。だから、暮らしが大事になる。日常の暮らし。特に私の場合食事。
暮らしは、まずは食うからはじまるのですね。子どもたちはバカスカ食う。嬉しいのだが、経済が心配になる。米の量が半端ではない。あっという間に5キロはなくなる。肉も野菜も魚も安くはない。
時々北海道からかぼちゃやトマトやメロンが送られてきて、感激する。20年ほど前に妻がスティーした農園から年に二回は必ず送られてくるのだ。ありがたいことだ。
その昔は着るものだって、縫ったり,繕ったりして、自分でなんとかしたものだ。肉も魚も野菜も自分でなんとか、などとふと考えたりするが、まあ、無理かなあと諦める。
日々の暮らしである。もちろん洗濯もやる。提案したい。60過ぎたら家事に専念し、暮らしを楽しもうと。その間に芝居や映画や小説や、なんだかんだが挟まって煩う。というのがいいね。
食うことはどんな環境でもつきまとう。独りぼっちになっても、大勢でも、ともかく生きていれば食う。だからそれを一番のお楽しみにしたいと思ったりするのだ。どうせ食うのだからね。
寝る楽しみも最近わかってきて、朝子供を送り出してから二度寝して、さっきまで見ていた夢の続きを見たりする。
暮しの手帖という本があったな、今もあるのだろうか。暮しの手帖。なんだかいいタイトルだね。人間は暮らせていけばもうそれで、全て良いとは言わないけれど。暮らすという言葉が最近引っかるのだ。
劇団日暮らし。なんて名前が浮かんだりしてね。さあ、今日も暮らそう。これから買い物と、夕飯の支度。かぼちゃと肉の炒め煮。それからサラダはなににしようか。メインは魚で・・もう一度いいます暇だってわけじゃあないんですよ。今週は土曜に久喜で「べっかんこおに」の公演。稽古も真面目にやっているのです。

牧野富太郎

植物学者として知られる牧野富太郎のことを調べている。様々な本を読んで天才とはこういう人のことを言うのだと思う。破天荒、常識では考えられないようなことをやっている。

山にこもり命がけの植物採集。実際に植物に触れることによってしか得られない知識を持つ。物心つく前に両親を亡くしている。きっと草花が心のよりどころだったのだろう。草と話し、草に包まれた幼少時。私は草の精と言ったが大げさなことではない、心からのものだったような気がする。ジョンレノンも早くに両親と別れ心のよりどころを音楽にした。こういう環境が天才を生むのかもしれない。

雑草という草はないという有名な言葉があるが、私は昭和天皇の言葉だと思っていた。昭和天皇は終生、牧野氏の植物図鑑を手放さなかったそうだ。手書きの細密画を見ただけで圧倒される。ディフオルメされていない。植物そのものの姿を丁寧に、植物からの伝言のように描いている。これを見ると植物の精と言っていることが納得される。小学校しか行っていない学歴で東大の研究室に入り、長い間講師をやり、80歳に近いころ博士となる。波乱の人生だが、子供のころからただ真っすぐ好きな道だけを歩いてきたことは驚愕するが。そこが天才なのだろう。ものすごい借金の山だったらしいが。牧野氏はなんと貸した方が悪いとまで言って、一歩も引かず研究をつづけたのだ。毎日93歳まで深夜まで仕事をしていたという。もう植物から生かされ、植物から何かを頼まれていたのかもしれない。

そんな感じさえする。奥さんのさえこさんは 13人の子を産み悪戦苦闘の末55歳で亡くなっている。この奥さんのことなどをもう少し考え、戯曲にしようと考えている。

べっかんこおにの公演が三軒茶屋で終わった。次回東京工芸大学、風の谷絵本館、久喜市、そして年末には新潟県上越での公演が決まっている。国外での公演も模索している。

暑い夏、演劇のことを考えている。演劇を進めている。稽古場の問題。劇場の問題。社会とのつながりの問題。社会にどのように貢献できるのか、そこが勝負だと思っている。もはや演劇はインテリたちから解放されなければならないと思っているのだ。出発進行である。

ビートルズ

渋谷の劇場にビートルズトリビュートバンド・レット・イット・ビーというのを観に行った。いやあ、面白かった。私の誕生日にと妻と長男からのプレゼント。予想していたより演奏、歌上手く。ビートルズの世界を満喫した。客も満席。それにしても、いかにビートルズが画期的だったかがよくわかった。一緒に行った長男も、感激。全然古くないねと言う。ビートルズというバンドがどのような戦い方をして、支持を得たのか、一つ一つの楽曲を聴いていてわかるような気がした。サージェント・ペパーズの衣装で歌う「ザ・デイインザライフ」などというのはライブではじめて観て鳥肌がっ立った。もの凄い曲だったのだ。それにしてもビートルズ。私が中学生の時が全盛。それが今でも、私の息子にまで届くような曲を作ったのだ。サービスで創ったとジョン・レノンが言う曲ほど。いまでも普遍性が感じられる。後にビートルズが解散して個人で好きなように作った曲のほうが古びて感じるのは私だけではないかもしれない。芸術というのは関係性なのかもしれない。人の視線を感じながら創造する。そのバランスがビートルズの場合初期に作った数々の曲の中にあるような気がした。観る側と創る側の緊張感。そのバランスがビートルズなのかもしれない。歌の上手い二人の歌手がいたこともビートルズの強みで、多くのバンドはボーカルは一人というのが大半だ。渋谷のシアターオーブという劇場でもの凄くいい時間をもらった。ヒカリエという近代的な建物の中で、60年代~80年の頃までの時代に遡る。終わって外は変わりゆく渋谷の街。ビートルズは不思議な事に近代化された渋谷の街にもフィットするのだ。改めて思う。ビートルズの活動そのものが大きな芸術であったのかもしれないと。毎日垂れ流されていく表現の中で何が残り、何が残らないのか。残ろうと思って作ったものが何も残らない。残らなくてもいいと思った表現が結果的に残っていく。ビートルズを聞きながらそんなことを考えた。