歩く

ここ一週間、渋谷のテレビ局に通った。行きも帰りも、ともかく歩く。家から渋谷の現場まで約50分。歩きながら、つらつら考える。明け方、6時頃、近くの緑道から出発。まだ薄暗い中、多くの人がもくもくと歩いている。地方の都市に行くと人が歩いていないことに驚く。どこに行くにも自動車。向うに見えるコンビニに行くにも車を使う。歩くと言うことをしない。5分も歩くと、少し歩きますが大丈夫ですか?などと言われる。歩くことを恥じているのではないかと疑いたくなるほどだ。都市の衰退は車の社会と無縁ではないのではないかとさえ思う。東京はだだっ広い平野で、そこに文明が広がっていったわけだ。アメリカもだだっ広く、移動するためのエネルギーはどうしても必要だ。そこで、石油エネルギーの争奪戦になり、原発はどうしても手放せない事情があるのだ。で、地方都市が、東京化、あるいはアメリカ化しても意味がないと私は思う。東京に追いつけ、の発想はまったくもって、滑稽なのだ。土地の構造が違うと思う。
で、地方都市に地下鉄や自動車。いらないのではないだろうか、と思うときがある。人口3000人の島に2000人入る劇場ができたと言っていたのを聞いたことがあるが・・いらないんじゃないかと思うのだ。
近くを見てばかりいる。などと悪口を言うが、遠くを見てばかりいても、土地は活性化しないのではないだろうか。「世界中を見て歩き、砂漠を歩いた、どんな困難にも立ち向かえる」などと豪語する若い奴に何人か会ったことがある。でもそいつは、隣近所やゴミの捨て方や、近隣の緑の豊かさに興味がない。細やかな人間同士の営みに興味がないので、演技をやらせても、実がない。小さな人間関係には、ほとんどうんざりするが、そもそも、小さな人間関係だけで、人は生きているので、どんなに遠くに移動してもそれは付きまとう。
歩きながら、つらつら考える。私のところから、渋谷まで歩くと45分。電車と歩きを交えると20分。歩きだと25分多くかかる。往復で50分。それを無駄だと思うか、有益だと考えるかは、それぞれだが。少なくとも私の足は活性化し肩こりや腰痛はなくなる。
地方都市で45分歩くといったいどこまで行くのか。実験したいものだ。京都だと太秦から嵐山辺りか。
最近よく行く山梨だと甲府から石和辺りまでは歩けるか。
人工的なエネルギーに頼りきった生活に依存すると、原発の問題も議論さえも出来なくなる。
車のない都市が現れても、面白いと思うのだがどうだろうか。車がないとその都市は滅亡するのだろうか・・。
なんてことを考えながら、弁当持参で現場に行って仕事。ほとんどのシーンに出ているので、ほぼ一日中仕事。
雰囲気、影、でもその場にいるという、まあ、舞台劇のような現場で・・皆、疲れを隠して、踏ん張って仕事をしている。
昨夜ようやく一段落して、ちょっとビール。朝、5日ぶりに子どもたちの顔を見る。
さて、来週には3月公演のチラシが出来る予定。
若い、今が旬の俳優たちの演技に触れて、刺激。言葉の教室もスタートは歩くことからはじめている。
演技は人口のエネルギーに依存できません。まずは足腰なのです。

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