蓮司さん

本当に久しぶりに、石橋蓮司さんと仕事をした。ラジオドラマだ。「母、逝かず」というタイトル。市原悦子さんもでていて、出演者の年齢層高い。見渡すと、私が若手のような現場。休憩中には、戦時中の疎開の話。いや、もう嬉しい現場でした。リハーサルの日。帰りがけに蓮司さんが「鈴木。明後日飲むぞ」と声掛けられる。「はい!」と私。側にいたマネージャーが「あんな、鈴木さん始めてみました」と笑う。私は、昔から蓮司さんの子分なのである。石橋蓮司にあこがれて芝居を始めたといっても過言ではない。蓮司さんや蟹江さんの側にいられることが、どれほど晴れやかな、心踊るものだったか・・今でも、その頃の自分の姿が目に浮かぶ。電車の中で稽古の帰り、蓮司さんに、ヘルメットかぶった学生が握手を求めにやってくる「がんばってください!」そういわれると、なんだか自分まで偉くなったような気分がしたものだった。蓮司さんや蟹江さんの演技の真似をして私は俳優になったのだった。本番当日、私の収録が早く終わり、スタジオの外で待っていると「鈴木。待てるか」
と、事務所の社長と話している私に声をかける。「も、も、もちろんですよ」事務所の社長が笑っている。
終わって、近所の古くからある台湾料理の店へ。話はさかのぼり、どんどん昔に戻る。もちろん驕りで「ごちそうさまです」と挨拶する。後、何回、こうやって飲んだりすることが出来るのだろう。などと、帰り道、桜開き始めた道を歩いて思う。そうだ、初めて参加した劇団は「桜社」といった。蜷川幸雄さんの演出で「泣かないのか、なかないのか、1973年のために」というタイトル。蟹江さんも蓮司さんも素っ裸で舞台に立っていた。風呂屋の芝居で、何トンもの本水を使ったのだった。蟹江さんはもういない。
春はもう爛漫の気配。桜も咲きはじめました。近所ではお花見客が歩いています。「べっかんこおに・おにヒメサマ」のチラシも出来ました。今回は初めて、ちいさなハガキも作ってみました。手元に届くこともあるかもしれません。稽古も始まりました。世田谷区若林のケーブルテレビ。新潟の北区文化会館にて「べっかんこおに」今年のかたりはじめです。一人芝居やっているんですよと蓮司さんに言うと「そうか、それはいい」と言いました。
それだけで、もう、勇気が出てしまうんですねこれが。先輩というのは、そういうものかもしれません。

Follow me!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次